| ケット・シー
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/column/200210/soc_hihyou_021002_1201.html
「スポーツナビ」では、宇都宮徹壱さん(W杯期間中から精力的にコラムを発表されていましたね)が、『季刊 サッカー批評』の半田雄一編集長にインタビューをされています。その中で、半田編集長は宇都宮氏の
「結局のところ、この国はワールドカップの歴代開催地になっても、依然としてサッカーに関する言説は未成熟なままの状態であり続けるのでしょうか。送り手のひとりとしても、受け手のひとりとしても、何ともやり切れない気分になってしまいますが。」
という問いかけに対し、
「以前、スポーツナビで連載していた「メディアはワールドカップをどう伝えたか」の中で、宇都宮さんが「(日本のサッカー・ジャーナリズムは)子供服のようだ」と書いていましたよね。「消費者が大人なのに、相変わらずメディアは子供服ばかり作っている」って。あれは僕、全然違うと思います。例えからして違っていて、60パーセント向けに作っているものを買っておいて「何で、俺たちに向けた紙面づくりをしないんだよ」というようなものですよ。でも、そんなふうに深いものを求めている読者って、全体の1パーセントもいないわけじゃないですか。僕自身、その1パーセントの読者に向けた雑誌を作っているから、あの「子供服」の例えは痛切に違うと思いました。」
と答えられています。
これは非常に示唆的で、多くの問題提起を含んだ発言だと思います。皆さんはいかが思われるでしょうか?
私は基本的に宇都宮さんの元の発言のほうに同感である人間です。現在のサッカーを取り巻くメディア状況は、「消費者が大人になっているのに、子供服ばかり作っている」ような状況であると思っています。しかし、サッカー批評という「大人服」の代表であると「思われる」ような雑誌の編集長が、「それは違う」と言うのです。これはいったいどうしたことでしょうか。
ここで注意したいのは、やはりたとえ話だけに、「子供服」「大人服」が何をさすかという対象が曖昧になってしまっているということです。サッカー批評は「大人服」と「思われる」とカギ括弧をつけたのはそういう意図です。本当に「サッカー批評」は「大人服」の代表なのでしょうか。そもそも大人服とは、どのようなものを指すのでしょうか。
私はサッカー批評の半田編集長が、「そんなふうに深いものを求めている読者って、全体の1パーセントもいないわけじゃないですか。」といい、「1%の読者が求めるそんなふうに深いもの」を大人服だと思っていることに、異を唱えたいと思います。それは、「大人服」の中でも特殊なもの、悪く言えば通販で売っている甚平さん、よく言えば、毎日着るには気が引けるコム・デ・ギャルソン・プリュスのようなものなのです(笑)。
逆に言えば、今のメディア状況、子供服ばかり作っている服屋さんは、単にユーザーのレベルに合わない服を作っているだけではありません。その子供服は縫製も雑で、穴も開き、傷もかぎ裂きもある、そういう服なのです。子供服としても良質なものであれば、それはそれで問題がないとも言えるのですが、残念ながらそうではありません。
宇都宮さんの言葉を借りれば
・特定の選手に感情移入するあまり、日本代表や協会のあり方、そして代表監督の人格にまで言及するような、実に感情的な批判記事を書く。
・自分こそが「日本サッカーのご意見番」であることを誇示したいばかりに、代表を必要以上に貶(おとし)め、日本サッカー界の悲願であったベスト16進出にも難癖を付ける。
・特にサッカーが好きでもないくせに、わけ知り顔でメディアを通してサッカーを語ってしまう。
・目の前で行われた明らかな「サッカーへの不正」に対して、自らの保身のために目をつぶり、耳をふさぎ、口を閉ざしてしまう。
・自らの主張の正当性に固執するあまり、時に事実を曲解し、さらには捏造(ねつぞう)さえしてしまう。
・読者(=大衆)を明らかに見下し、ファンの心理を愚弄するような発言をする。
というような、穴も開き、かぎ裂きだらけの子供服ばっかりが大量生産されているのが、服屋さんたちの現状なのです。私ならさらに
・ピッチの上の「サッカー」を見ずに、選手や監督の発言の一部を取り上げ、「売らんかな」のために過度にセンセーショナルな記事に仕立ててしまう。
という一文を付け加えます。いずれにしても、それは半田編集長がいうような、「60%を対象にし、その60%にふさわしい記事」であるとはとても言いえないものだということが出来ると思います。
「そんなふうに深いものを求めている読者って、全体の1パーセントもいないわけじゃないですか。」これは一面の真実を含んではいますが、真実の全体ではないのでないでしょうか。というのは、それは「現在提供されているようなカタチの」深いものを求めている読者は、という但し書きをつけるべきだからです。
「サッカー批評」は私も大変好きな雑誌で、勉強にもなり、よく読んでいます。しかし、その記事の良質さとは別に、私は一読者として、「この雑誌売れないだろうなあ」という感を抱かざるを得ません。その紙面構成、写真の少なさ、取り上げるテーマ、それを伝える文体、すべてが、「少数派であるサッカー好き」を意識したものにしかなっていない(そのつもりがないのにそうなってしまったのかもしれませんが)ためです。
このW杯でかなりサッカーに興味を持ち、何かサッカー関連の読み応えのあるものを、と本屋を徘徊するにいたった方でも、「サッカー批評」に到達するのは相当にわずかでしょう(笑)。そこには「どうせこれを求めるのは1%しかいないんだ」というような、ある種の無自覚の開き直りがあるということを、おそらくその世界にどっぷりとつかった半田編集長には知覚できないのだと思います。
ひるがえって、Number誌は、「スポーツグラフィック」と副題についているように、美麗な写真をふんだんに使い、スタジアムの興奮を紙面に再現することを貪欲に追及しました。また、選手の配置を図式化したり、コンピュータグラフィックスを使い得点シーンを再現したりして、「サッカーの魅力をわかりやすく伝える」ことに意を砕いていた時期もありました。それは「サッカーの深い部分を書いたものを求めるのは小数」というような諦観のない、新しいジャンルを開こうとするパイオニアであったとさえ言えるでしょう。
(ただし皆さんもご存知のように、その後ある一つの記事が大ヒットしたことから、ピッチの上を見て「サッカーの魅力を広く伝える」ものではなく、選手の内面やチームの内側、出来ればそこでの確執などの人間ドラマをセンセーショナルに描く記事が主流になってしまいましたが)
そのような努力をサッカー批評はしたのでしょうか。「深いサッカー記事を、深いサッカー記事を読みたい少数の人へ」ということしか考えていなかったのではないでしょうか。深いサッカー記事を、とっつきやすく、読みやすく、理解しやすく、魅力的に、そのようにしていくことは不可能なのでしょうか。それができたら、現在1%しか届かないものが、10%、20%にしていくことも、もしかしたらできるのではないでしょうか。
誤解しないでいただきたいのは、この文章はけしてサッカー批評を批判することをメインテーマとしているわけではないということです。むしろ、前にあげたようなぼろぼろの子供服に比べれば、はるかに良質で、はっきりと大人服といってもいいと思っています。しかし、やはりそれはコム・デ・ギャルソン・プリュスであって、我々はもっと、10%、20%、あるいは60%の大人にも受け入れられるような、そう、例えていえばビームスのような(笑)サッカーメディアを求めていいのではないかと思うのです。
サッカーマガジンは、1999年になったあたりから、次第にレイアウトを変えて、グラフィック誌のようになって行きました。記事も、これまでサッカーに詳しいわけではなかった読者がはじめて手に取っても興味の持てるものにしようと、ある程度気を使っていることが見て取れました。いわば「サッカーマガジンのNumber化」がなされたわけです。私は、一つ一つの記事には不満もあるけれども(笑)、総体としてこの方向性は支持したいと思います。もちろん「サッカー批評」に比べれば突っ込みは浅いですから、服としてもそれほどの高級品ではない(ブランドを上げることは避けますが・笑)でしょうが、やはりこれも「大人服」と呼んでかまわないでしょう。
さて、再度現状認識を申し上げるなら、読者が大人になっているのに、ぼろぼろの子供服を作り続けるメディアが多いというのが、相変わらずの私の認識です。そして、それに飽き足らない人の受け皿が、大人服の中でもちょっと特殊な部類に入る「サッカー批評」などしかないということです。もちろん「売れるのはゴシップなんだ」という考えは、商売としては正しいものであるとは思いますが、それをメインに求める読者ばっかりでもないだろう。W杯を経て、読者は、少なくともそのうちのある程度の部分は、「大人」になって来ています。これまでよりも深い、ピッチの上を的確に解説してくれ、同時に読みやすいものを求め始めているのです。
私は「子供服を作ってもいいから、良質なものを」ということと、「広く受け入れられる(ことを目指した)大人服を」ということを、世間の服作り屋さんたちには強く望みたいと思います。もちろんまだまだサッカーメディア界も草創期。これからそういうものがたくさん出てくるのだと予想&期待したいものです。
それではまた。
追記:ここで「ケット・シーの書くものはなに服なんだ?」という突っ込みは、してもいいけど、あまり面白い話には発展しませんぜ(笑)。
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